広大な土地の大半が凍り付いたトゥオネラ平原。
『吸血姫』の死と共に亡者達の動きがぴたり、と止まった。
突然の事に戸惑う冒険者達。
だが、そんな彼等を気にする事無く、動く屍は次々と親の吸血鬼の呪縛が解かれ、本当の意味での屍に変わっていく。
人間も、ドワーフも、オークも、ゴブリンも、ビヒモスも。
幾千もの骨を打ち鳴らし、崩れ落ちていく。
『吸血姫』の系譜は、例外無く、等しく安らぎの死が与えられていた。
濃厚な死の気配が、空が青に変わっていくと共に晴れていく。
照らされる万の死者の墓標。
「…………勝ったの、か?」
呆然と戦場の誰かが呟いた。
その言葉は、ストン、と素� �に冒険者達の腑に落ちた。
ふつふつ、と満身創痍の身体から沸き上がる激情に一人の冒険者が吼えた。
「勝った……勝ったんだ。俺達は勝ったんだあああぁぁぁっ!!」
「そうだ、俺達は勝ったんだ!」
「イイイッヤホゥゥゥゥ!! 『吸血姫』がなんだってんだ、俺達のリーダーを甘く見るんじゃねぇぇ!!」
咆哮を皮切りに、方々で上がる勝鬨(かちどき)。
瀑布のような声の洪水がトゥオネラ平原を震撼させる。
感極まって泣き出す者。
呆然と声の津波に身を浸す者。
隣に居た冒険者にキスの雨を降らす者。
歓喜の発露の仕方は十人十色。
そんな中、人より頭一つ二つ分ほど小さなホビット族の女性──モモは血色に曇った空から真っ青な快晴に変わった空を見ていた。
喧騒に塗れた風が、短いピンク色の髪を撫でるように攫う。
「あの馬鹿がやってくれたのね────っえ?」
モモは齎された勝利がゴルディスの手のものだと思っていた。
しかし。
風の精霊が違うよー、と暢気に知らせてくる。
悪戯っ子の気質が強い風の精霊は、次々とゴルディスの醜態とも云える報告をモモにしてくる。
それはもう嬉々として。
初めは困惑気味だったモモも、風の精霊の話を聞く内に目が完全に据わっていった。
「へえー、それじゃあウチの馬鹿リーダーは魅了されて大暴れしてただけ、と…………ふふ、うふふふ」
前髪に隠れ見えなくなるモモの顔。
その姿のまま肩を揺らして笑うモモは、とても不気味であった。
まるで嵐の前の静けさ。
「� ��んの馬鹿リーダーああああぁぁぁぁっ!!」
天を衝く咆哮が木霊した。
モモの怒りに呼応して周囲の精霊も四方八方に拡散し、小規模な衝撃波が吹き荒れる。
何事かと『外套と短剣』のメンバーが目を剥くが、気焔をちっこい身体中から上げているモモを見て得心する。
ああ、またリーダーが何かやらかしたな、と。
モモの激憤の咆哮に、遠く離れて精霊化していたシロはビクン、となり咄嗟に精霊化を解いた。
シロが彼女の怒声にバルの折檻の声を彷彿とさせたのは完全に余談である。
ゴルディスの折檻が決定した瞬間だった────
◆
彩色豊かな花壇に目を楽しませながら、紫苑は西洋庭園を歩く。
折れた左腕は、黒シルクの長手袋全体が硬質化し、現在添え木として機能 していた。
紫苑はふと、手入れの行き届いた西洋庭園を見渡した。
清水を静かに湛える噴水。
外で茶を楽しむ為に配置されたティーテーブル。
歩みを進める紫苑とバルしか生きている者の気配の無い綺麗な庭。
主人が居なくなってしまった抜け殻の箱庭。
紫苑は吸血鬼の主従が此処で過ごしてきたであろう日常に想いを馳せていた。
「一つ、訊いてもいいですか?」
「む? 遠慮せずとも良いぞ、何でも妾に訊くがよい」
ぽつり、と遠くにある白いティーテーブルを見ながら紫苑が零した。
「バルが話していた『真祖』って一体どういったものなのですか?」
「そのことか」
ふむ、とバルは球体関節の指を顎に置き、言葉を思案するように間も置いた。
言葉� �吟味を済ませたバルは結論から話し始める。
「端的に申せば、生きた秘蹟礼装じゃな」
「生きている?」
「然り。妾のように無機物に人格を宿している訳では無く、人工的な生物として製造された秘蹟礼装。
近い言葉で表すならアンドロイドやサイボーグと云った所じゃな。その一つに始まりの吸血鬼──『真祖』が含まれておる」
生体秘蹟礼装。
最も有名処を挙げるとすれば『神聖ミッドガルド帝国』の『月読みの巫女』。
稀有とされる未来視の奇蹟を行使できる生きた秘蹟礼装と云われている。
幼い少女の外見と、額に埋め込まれた第三の眼。
風の噂では皇帝の寵愛を一身に受け、政(まつりごと)にも彼女の予言は深く食い込んでいるという。
では、『真祖』が製造された理念、� ��の目的とは。
「龍殺し──それが生体秘蹟礼装『真祖』の至上目的であり存在理由(レーゾンデートル)じゃな」
「可能、なのですか? そんなことが」
龍殺しの単語に紫苑は大きな瞳をぱちくり、とさせて質問する。
文明を滅ぼす事が出来る個体を倒せる光景が紫苑には想像できなかった。
バルは肩を竦め、鼻で笑う。
尊大な態度であるが、バルが行うと自然と様になっていた。
「無理じゃな。自己再生に自己進化を有しておるようじゃが、千の時を経てもどの龍にも至らぬ。万の時を経て漸く足元と云った所か」
バルは長き年月の時を封印されていながら驚くほど博識だ。
その知識の出所は『遠見の法』で観測した情報である。
巨大水晶に厳重に封印されている中、バルトアン� �ルスが遠見の法で蓄えてきた知識。
それは並大抵の長命種よりも深く、また膨大な量であった。
まさに蒼の大地の生き字引と云える存在がバルトアンデルスなのである。
「吸血鬼も元を辿れば『真祖』の系譜。それ故に『龍』の打倒を目的として掲げておる輩もおる事にはおるが、少数派じゃ。
時の移ろいと共に、血を分かつ毎に親である『真祖』の至上目的は子の代で薄れ、今の世に蔓延る吸血鬼という魔物として人を襲うようになったのじゃ」
祖母が孫に云って聞かせるように、バルは紫苑に『真祖』の事について語った。
『真祖』が製造された時は、今から遡ること四千年前程だという事。
ローゼンクロイツの家名は、『真祖』が生み出した四代家系の一つである事。
真祖の生死は不� ��である事。
話している内に二人は、屋敷の門の前に来ていた。
見上げるほど高く、立派な門構えの鉄製の門。
門の向こう側。
森を切り開き、ある程度舗装された道の先に二つの人影が見えた。
真紅の髪の女性に、巨人族の大柄な身体。
アルトリーゼとゴルディスの二人であった。
走り寄ってくる二人組に紫苑は折れていない右腕を振って、無事を知らせた。
「シオン、無事か!?」
「えっと、はい。何とか『吸血姫』は倒す事が出来ました」
「……そうか、お前が無事で何よりだ」
「あの、アルトさん? ゴルディスさんは一体如何したのですか?」
きゅっ、と紫苑の手を両手で包み安否を気遣うアルト。
紫苑は過保護な姉のようなアルトに無事を伝えながらも、視 界の端に映る巨人が気になってた。
ぼこぼこである。
特に顔面が酷い。
元々、大きかったゴルディスの顔は二倍以上に膨れ上がり、岩のようにごつごつ、と膨れ上がっていた。
青痣だらけのゴルディスは、傍目から見ても紫苑より重体であった。
何故か重症のゴルディスを心配する紫苑を余所に、アルトはふん、と不機嫌極まった様子で鼻を鳴らす。
「気にするな、其処で転んだだけだ」
「大方、あの従者に操られておった所をアルトに殴り起こされたのであろう」
転んだにしては顔周辺の損傷が激し過ぎる。
おなざりな説明をするアルトに、バルは見て来たように的確な補足を付け加える。
その言はまさに正鵠を射ていた。
『魅了の魔眼(ブラッディ・アイズ)』の術中に嵌っ た者の対処法は、強い外的要因によるショック療法。
詰まり、魅了された者を殴打すればよいのだ。
斧槍(ハルバート)を小枝のように軽々と振り回すアルトの膂力から繰り出される拳。
魔眼の魅了を解く為、空気が唸りを上げる豪拳が幾度もゴルディスの顔面に突き刺さる。
それ程までに吸血鬼メイド──ラヴァテラの掛けた魅了は深かったのだ。
結果、腫れと内出血に彩られた不細工なオブジェが完成したのであった。
「そ、そんな事より『吸血姫』をやったってのはマジか?」
「はい。危ない所も多々ありましたが、なんとか」
ぼん、と大きな掌が紫苑の頭に乗せられた。
掌の持ち主は巨人族の戦士──ゴルディス。
「やるじゃねぇか、シオンの坊主。大金星だ」
ぐりぐ� �、と乱雑に大きな掌は、紫苑の天使の輪が光る黒髪を撫でた。
ちらり、と上目遣いでゴルディスを見るが、誰? と云いたくなるほど前に見た顔の造形を留めていない。
寧ろヒトの顔は、これ程までに膨れ上がる物なのかと『少年アリス』は密かに慄いた。
「このうつけ者め! 粗野な手付きで『妾』の紫苑の髪に触れるでない、折角の御髪(おぐし)が台無しになってしもうたでなはいか!」
「おっとワリぃ」
バルの一喝にゴルディスは乗せていた掌を離す。
頭全体を覆っていた掌がどかされると綺麗に整えられていた紫苑の黒髪が、少し乱れ髪となっていた。
元が流れるようにとても美しい髪なだけに、ちょっとの乱れでもかなり目立つ。
紫苑は一旦結わえていた紐を解き、さっさっ、と手� �で乱れ髪を梳(くしけず)る。
指通りの滑らかな毛髪は、それだけで元に戻った。
「繊細さに欠ける奴め」
「全くじゃ。紫苑の髪は絹織物なんぞよりよほど優美。貴様がおいそれと触ってよい代物ではない」
「あの、別に其処まで大した物では……」
過剰気味に賛美するバルの物言いに、紫苑は面映ゆそうに謙遜。
そしてさりげなく助け船を出す。
だが聞き入れて貰えずに無視される。
説教を食らっているゴルディスも『吸血姫』討伐に関しては全く役に立っていないので強くは出れない。
加えて、もし出ようものなら。
「ほら、シオンの坊主もいいって云っているんだしよ────」
「ハッ、ようもまあ抜け抜けとそんな口が叩けるもんじゃのぅデカブツ。図体ばかりデカくても糞 の役にも立たぬではないか」
「精神修養が足らぬから魅了などと云う小手先の技に引っ掛かる。全く貴様という奴はモモが居なければどうしようもない独活(うど)の大木だな」
「妾の紫苑が『吸血姫』と命懸けの殺し合いをしておった時に貴様は何をしておった? どうせ阿呆のように暴れておっただけじゃろう。
情けない。従者の方を足止めする事は疎(おろ)か、アルトにまで手を煩わせおってからに」
「大体貴様はモモに多大な気苦労を背負わせすぎているのを自覚しているのか? 貴様の考え無しの行動の尻拭いはモモに向かうのだぞ。
少しは日頃の感謝なりお礼なりをするのが普通ではないか」
女性陣の辛辣極まりない毒舌に晒される。
低級魔法の速射のような罵詈雑言の嵐。
バルは尊大に 踏ん反り返り、アルトは両腕を胸の前で組み、朱の唇から毒を吐く。
精神薄弱な男が二人の苛烈な言論の暴力を受ければ、それだけで精神的外傷を深く抉り込まれるであろう。
幸いな事に鈍いゴルディスは、キンキンと叫ぶ女性陣に弱り切った顔で頭髪の無い頭を掻くだけであった。
ゴルディスの大きな単眼が紫苑に助けを求め視線を送る。
「シオンの坊主からもなんとか云って────」
"4アレルギー反応は何を意味するのか?"
唐突。
世界が『虹の極彩色』に包まれた。
青空であった天空が一瞬にして虹色に染まり、精神を酷く犯すマーブル状に流動し蠢く。
虹色に変貌した空が、西洋庭園を、花壇を、森を、道を、紫苑達を不可解な光で照らす。
そして、遠方より聞こえ出(いず)る単調なフルートの音と下劣な太鼓の音。
冒涜的な音楽が耳を舐め、脳を揺り籠に乗せ、不規則に揺らす。
「『狂い龍』だッ! 目を閉じろッ!!」
アルトが焦燥感に駆られながら大きく叫んだ。
彼女の切れ長の目は、絶対に開かぬようきつくきつく閉じられていた。
あまりに強く瞼が閉じている為、眉間に深い皺が刻まれる。
ゴルディスも� �ルトに云われる前から単眼を閉じ、絶対に空を見ぬよう下に顔を向けていた。
『狂い龍』。
それを指す正式な名前は無い。
蒼の大地に生きる住人が最も遭遇しやすく、身近に居る見てはならない隣人。
他の『龍』達が深く休眠をしている中、彼の『狂い龍』だけは悠然と空を漂う。
狂い龍を見てはいけない。
狂い龍を語ってはいけない。
狂い龍を描いてはいけない。
狂い龍を書いてはいけない。
狂い龍を彫ってはいけない。
狂い龍を歌ってはいけない。
狂い龍の名を読んではいけない。
狂い龍は常に冒涜的に下劣に不快に嗤う。
ただ見るだけで精神を犯し尽され、塩の柱となってしまう絶対的に狂った存在。
感受性の強い者であれば、その不愉快な口から 発せられる冒涜的な音楽だけで発狂してしまう。
空が虹色に染まったのなら人も動物も魔物も地に平伏し、耳を塞ぎ、目を閉じ、『狂い龍』が去るまで怯えなければならない。
それが『狂い龍』。
大空を雄々しく羽ばたく飛蜥蜴ですら忌避し、畏れる狂気。
一説には唯一神ティアラスと太古の昔に覇権を争った外なる神と云われているが定かではない。
単調なフルートと下劣な太鼓が織りなす金切り声に似た不協和音。
精神を外界へと連れ去ろうとする音楽が徐々に近づいて来た。
天空は増々毒々しい極彩色に彩られ、その中心に『狂い龍』と呼ばれる存在が宙を泳いでいた。
「────」
誰もが大地へと平伏する中。
唯一、一人と一体が空を仰いでいた。
紫苑とバルトア ンデルスである。
紫苑はその深い蒼眼で虹色の心臓部を見ていた。
大粒の瞳内部に映し出される異形の『龍』。
それは海洋を優雅に泳ぐ海鷂魚(エイ)に似たナニカであった。
平たい漆黒の体表は、常に流動しており、膿のような気泡が膨らんだり破裂したりしている。
汚泥のように泡立つ身体から飛び出した手は、病的に白く、骨と皮と不愉快で構成されていた。
そして。
海鷂魚(エイ)の身体に付いた不似合いな『仮面』。
ぬめり、と不気味なほど白い仮面に開いた三つの穴。
虚ろな暗がりを内に秘めた眼孔と口孔。
『狂い龍』はその虚ろな二つ孔で地上を見詰めていた。
一目見れば、たちまち発狂するか、塩の柱になるほどの精神的汚染が直視した紫苑を襲う。
しか� ��。
紫苑の精神は揺るがない。
「やっぱり、ちょっと気持ち悪いですね」
「くく、其れだけで済むのは紫苑だけじゃ」
ぽつり、と空を見仰いだまま紫苑が感想を零す
バルが零された言葉に対して愉快気に喉を鳴らす。
紫苑が蒼の大地に召喚されて、これで二度目になる『狂い龍』との邂逅。
仮面に開いた落ち窪んだ眼窩と、蒼穹の瞳が交錯した気がした。
やがて『狂い龍』は冒涜的な音楽を撒き散らし、悠然と去っていく。
虹の極彩色の空が緩やかに遠ざかる。
脳を掻き乱すフルートと太鼓の音が聞こえなくなるまで、
虹色が見えなくなるまで、
紫苑は『狂い龍』の混沌たる汚泥の身体を見続けていた。
「しかし、良くもまあ続くものじゃ。それほどまでにあの『女 狐』が恋しいか、狂い龍よ?」
傍らでバルは紫苑にも聞こえない声量で言葉を吐露する。
その視線の先は担い手と同じく、『狂い龍』の去る空を見ていた────
Original Novel
追憶のシオン
第Ⅸ章『宴』
パチリ、と目が開いた。
開けた視界に映ったものは、此方を上から覗き込む金髪碧眼の少女のあどけない顔。
覆い被さる形でバルがベッドの上で目覚めた紫苑の顔を堪能していた。
硝子玉の瞳と視線がかち合う。
にんまり、と細まる少女人形の目が紫苑の寝覚めを祝福していた。
「ようやっと起きたか、紫苑」
ぱふん、と軽い重さが紫苑の胸に圧し掛かり、バルが白磁の首筋に顔をうずめる。
緩くウェーブを描く豪奢な金髪が首筋をくすぐったく撫でる。
紫苑はモノクロのドレスに包まれた背中に手を回そうとした。
だが、先の戦いで左腕が折れている事を思い出し、持ち上げかけた左腕をベッドに下ろした。
そして、無事な方の右腕 でそっ、とあやすようにバルの背中を叩いた。
ぽん、ぽん、と。
「えっと、此処は…………『渡り鳥の止まり木』、ですか?」
「然り。中々に盛大な戦であったからのぅ、疲れてしまっても無理はない。寝入った紫苑をアルトがおぶさって此処まで運んだのじゃ」
「そう、でした」
紫苑は力を抜いてお日様の匂い香るシーツに体重を預ける。
脳裏には意識が落ちる直前の事が浮かんできた。
連戦で体力、精神共に疲弊し、ふらついていた紫苑を見兼ねたアルトが背を貸してくれた事。
遠慮するも半ば強引に背負われ、歩く度に優しく揺れる振動が睡魔を誘い、やがて完全に寝入ってしまった事。
「後でお礼を云いにいかないと駄目ですね」
「うむぅ……まあ、そうじゃのう」
ぽん� ��ん、と背をあやしている内に、今度はバルの方が猫のように丸まってしまう。
子供のように鼻先を首筋に擦り付けながらバルは、紫苑の匂いを楽しむ。
よいしょ、と控えめな掛け声と共に紫苑が上半身をベッドから起こす。
無論、バルを片腕に抱えたままである。
既にほどかれていた黒髪が挙動に合わせてしなやかに拡がった。
「外が少し、賑やかですね」
窓の外から聞こえる街の喧騒。
薄暗くなったラタトスクの街では人の喧騒が絶えないが、聞こえてくる喧騒は熱気に満ちて、平時より些か活気がある。
客間である二階の窓からは、精霊灯が明るく外を照らし、野太い歌声や笑い声が満ちていた。
紫苑の胸に張り付いたまま、バルが疑問についての解を話す。
「そうさな、刻 限で云えば既に宵の口。今は戦っておった者達が『吸血姫』討伐の祝杯を皆で開けておる所よ。
街の者も大盤振る舞いでな、酒精の入った輩共が大方馬鹿騒ぎでもしておるのであろうよ。行ってみるかえ?」
「はい」
「うむ、良き返事である。やはり主役が居らねば祭りは盛り上がらぬであろうからな」
覇気があるというよりは、たおやかな肯定の返事。
バルは破顔一笑。
快く紫苑の同意を喜んだ────
◆
ぐびっ、ぐびっ、と小さな喉が景気良く動き、琥珀色の液体を胃袋に送り込んでいく。
樽型のジョッキの中身を一気飲みしたホビット族の女性──モモ=フェルベルマイヤーは盛大に酒臭い息を吐く。
モモの現在の格好は、非常にラフな物であった。
ワンピース型の革鎧 は装備していない。
ピンクを基調としたTシャツに、プリーツの入ったチェックの膝丈スカート。
Tシャツの胸元にはホーンラビットと呼ばれる角の生えた生き物をデフォルメした可愛らしいアップリケが取り付けられていた。
おそらくホビットとラビットを掛けているのであろう。
「ぷっはーーー!! くぅーー、生き返るわーー!」
口の周りに付いた麦酒の泡を豪快に手の甲で拭い、喉を焼くアルコールに酔い痴れる。
カァ、と臓腑が熱くなり、陽気な気分に満ちる頭。
だが。
「なぁ、モモよー。俺はいつまでこの体勢でいりゃあ良いんだ?」
「ああん?」
場所は、ラタトスクの中央広場。
ラタトスクを象徴する栗鼠(リス)が象られた噴水を輪の中心に、冒険者達がどん� �ゃん騒ぎを起こしていた。
若いも老いも関係無く、男も女も種族さえも越えて集まった者達は一緒に浮かれていた。
中央広場にはここぞとばかりに出店が立ち並び、『吸血姫』の軍勢に打ち勝った者達へ大盤振る舞い。
裸踊りを敢行する者。
突如としてストリップショーを始める者。
露出度が高くなった女に眼を釘付けにする者。
今回の武勇を語る者。
ひたすら酒と肴を飲食する者。
各々が皆、笑みを浮かべ、宴を楽しんでいた。
ただ一人を除いて。
現在、モモは地べたに座っている訳では無い。
もっと上等な『モノ』を椅子にしていた。
「アンタ、シオン君やアルトに迷惑掛けただけで何にも役に立っていないんですってね!!」
「…………まぁ」
「じゃぁ� ��って椅子になってなさい。勿論酒を飲むのも禁止、つまみだけは別に食べてもいいわ」
「……生き殺しじゃねぇか」
「何か云った?」
「何にも云ってねぇよ!」
モモは据わった目で『椅子』──胡坐をかいたゴルディスをねめつける。
その眼光にゴルディスはリーダーとしての威厳をかなぐり捨てて唯々諾々と従うしかなくなってしまう。
わかれば良い、とモモは満足そうに溜飲を下げ、空になったジョッキに麦酒を部下に注いで貰い、『椅子』に背を預けた。
そしてご機嫌な様子で今度は、ちびちび、と酒盛りを再開した。
しかし。
徐々にモモは臀部に違和感を感じてきた。
盛り上がってくる熱い肉の隆起。
冷めた目でモモは、ゴルディス兼椅子に振り返る。
「アンタ、� ��っきからお尻に固い物があたってるんだけど、これはナニ?」
「いやー、その、なんだ? おめぇがいちいち動くから仕方ねぇだろうがよ、生理現象だ、生理現象」
「ふーん」
興味を失くしたモモはぷい、と向き直り再び酒盛りを始める。
ゴルディスからはモモのピンクの髪が酒を飲む度に揺れていた。
所在なさ気に単眼を逸らしていたゴルディスはほっ、と胸を撫で下ろした。
今日のモモは酒の回りが早いようだ。
このまま済し崩し的に誤魔化せる。
ゴルディスは根拠も無く確信した。
その自惚れが決定的な隙を生じさせた。
「って、何そんなモノおっきくしてんのよっ! アンタのデカいモノなんて『まだ』入んないわよー!!」
「おげらっ!!」
不意打ちのアッパ� �カットが顎を強かに打ち据えた。
下顎から脳にかけて突き抜ける衝撃。
巨大なゴルディスの上半身は堪らずノックダウン。
地面へと盛大に倒れた。
──まだ!?
──まだ、なんだ……
──頑張れ副リーダー超頑張れ。
息を荒げてゴルディスを見下ろすモモに、取り巻きで見ていた『外套と短剣』の面子は各々の感想を内心で漏らす。
モモがゴルディスに恋慕している事はクラン全体での周知の事実。
知らぬはゴルディス本人のみ。
戦闘以外の方面ではゴルディス以上に人望の厚いモモに、『外套と短剣』のメンバーは声無きエールを送る。
種族を超えた愛が育まれる日は、そう遠くないのかもしれない────
◆
俄かに酒宴の一角が騒がしくなる。
どよ めきにゴルディスを昏倒させたモモその一角に目を向ける。
モモが目を向けた先で色めき立つ人波が割れた。
割れた人垣の奥。
現れた人物を見て、モモは色めきたった喧騒の原因を見つけた。
ほう、と誰かが感嘆の吐息を零した。
否、零さずにはいられなかった。
なぜそれがバランスの食事を計画することが重要です。
人垣の奥から歩いてきたのは、童話の中だけに存在する永遠の少女──アリス。
さらり、と艶やかな絹髪は、歩く度にビロードのように拡がる。
その美しく、あどけない顔に浮かんでいる表情は柔和で優しげ。
少し大きめの長袖の簡素なシャツに身を包んでいるものの、それは少女の可憐さを損なう要素にはなり得ない。
寧ろ素朴な服装故に少女自身の魅力が際立っていた。
一つだけ、アリスにそぐわない物があるとしたならば、
それは折れた左腕を首から吊った三角巾であろうか。
華奢な少女を痛々しく彩る三角巾。
しかし、それは少女の儚さを想起させる役割も持っていた。
そし� ��、傍らには人形アリスであるバルが寄り添って歩いていた。
「こんばんは、モモさん。御無事で何よりです」
「えっ、あ、うん…………ってシオン君!?」
「はい、そうですよ?」
「うわー、全然気付かなかったよ。髪を下ろすだけでこうも印象が変わるもんなんだねー」
宴に参加した者達の注目を一身に集めたアリスの正体。
それは髪を下ろした紫苑であった。
モモはゴルディスの胡坐の上に座ったままアリスの正体に驚きを露わにする。
ゴルディスは胡坐をかいたまま、上半身は地面に大の字で伸びていた。
どっ、と宴の会場が沸いた。
『吸血姫』討伐の立役者の登場である。
より一層賑やかになった喧騒の風の中。
二人は何気ない話に花を咲かせる。
「なにぶ� ��腕がこうなってしまったので、自分独りでは結えなくて」
「そっか。じゃあさ、モモお姉さんが結んであえようか?」
ずずい、とモモが紫苑に顔を近付ける。
桃色の髪から女性特有の甘い香りが鼻先を掠めた。
酒精により上気したモモの身体からは、本人の意思に関わらず異性を引き付けるような誘蛾な雰囲気が現れていた。
「いえ、そこまでして頂かなくとも……」
「良いって、良いって。アそれにタシの髪は結構短いでしょ? だからシオン君みたく長い髪はちょっと弄ってみたいの」
モモは自身の桃髪の毛先をくるくると指に巻き付けて遊ぶ。
確かにモモの髪は肩口で切り揃えられており、髪型のバリエーションを楽しむには長さが足りない。
その点で云えば、紫苑の黒髪は最上� �素材であった。
「それでは、お願いしても良いですか?」
「勿論っ!」
「む、妾も紫苑の髪を弄りたいぞ」
「ならバルさんも一緒にどうかな?」
「うむ、随伴しようぞ」」
モモは小さな手で紫苑の手を引き、噴水広場のベンチに促す。
モモの女性としての感性が紫苑を地べたに座らせる事を良しとしなかった為の措置だ。
之がゴルディス辺りなら平気で怪我人の紫苑に対して地面に座る事を促したであろう。
「うっわ…………すご」
ベンチの上で膝立ちになり、横に腰を下ろした紫苑の髪を手櫛で梳(くしけず)ったモモの口から感嘆の息が漏れる。
指と指の間を水のように流れていく絹髪の感触。
それはまるで川のせせらぎの中に居る感覚をモモに齎した。
女性としての 嫉妬より先に感動すら覚えるその髪質に、モモはただ圧倒された。
髪を結わうという目的を忘れて、モモは無言で紫苑の髪を指で楽しんだ。
紫苑を挟んで反対側に居るバルも同じような調子だった。
「……」
「……」
「あの、モモさん?」
「はえっ! な、何かな、シオン君?」
「いえ、急かすようで申し訳ないのですが、まだかなと思いまして」
「あ、ああ御免ね。ちょっと想像していたよりも遥かに綺麗な髪だったもんで、思わず堪能しちゃったわ。
毎日何処の洗髪剤を使っているの? 『妖精の化粧台』とか? 興味が尽きないわ」
直球な物言いに、紫苑は面映ゆそうに頬を少し朱に染めて、口元を綻ばせた。
そして、モモの称賛の言葉になぜかバルが胸を張った。
「ふふ� ��、当然じゃ。紫苑の髪は妾が製造した特性のトリートメントで毛先までばっちりキューティクルを保たれてるのじゃ。
この髪質は当たり前の帰結、むしろ必然と云えよう」
秘蹟礼装バルトアンデルスの能力は『千変万化』。
現在は力の全容は休眠状態なれど覚醒すれば森羅万象を悉く塗り替えていく魔性の神器。
行使している現象は、漏れ出ている力の一端。
その力の一端を応用すれば変化は自身の身に留まらず、ある程度の融通も効く。
つまり。
そこらに散逸する土塊や、木々などからも紫苑の髪質を保つトリートメントを精製する事が可能。
専らはバルは、ウルドの湖の水を変化させてそういった化粧水やらを精製している。
こと紫苑の美貌を保つ為ならばバルは労力を惜しまな いのである。
著しく使い方を間違っていると思えないでもないが。
「いいなぁ、アタシもそのトリートメント一度使ってみたいかな」
「ふむ、其処まで云うのであれば少し分けてやろうか?」
「いいの!?」
「うむ、其処まで手間の掛かる訳でも無いからのぅ。それに肌に合わぬようならば止めてしまえば良いしの」
「ありがとっ! バルさん」
冒険者と云う堅気の職ではないとはいえモモも女性である。
美容に気を使う事は至極当然。
バルの提案に二の句を告げずに飛びついて反応してきた。
「では紫苑も待ち草臥れておるようじゃし、早々に髪を結わえるとしよう」
「あっごめんね、シオン君。長々と話し込んじゃって」
「いえいえ、気にしてませんよ」
小さな体を 更に小さくして申し訳なさそうに謝るモモ。
謝罪を紫苑は軽く受け入れる。
「しかし、どういった髪型にするべきか、聊か迷うものではあるな」
「あっ、それはちょっと分かるかも。折角だから何時もとは違う髪型にしたいわ」
むむ、と二人で眉を寄せて考え込む。
その間にもモモとバルの指はすっ、すっ、と手櫛で紫苑の髪を梳いていた。
それから数分間、二人は己を意見を出し合い、漸く一つの髪型に纏まった。
頭の高い位置で結い上げられた黒髪。
一房に纏められた後ろ髪を括っているのは淡い水色を基調とした水玉模様のシュシュ。
モモが選んだ髪型は、括った後ろ髪が馬の尻尾のように垂れているポニーテールだった。
結わえられた髪から除く白いうなじが仄かな色� �を醸し出していた。
「何時ものとは違うがこれはこれで新鮮な感じがするのう」
「アルトさんとお揃いですね」
「確かにね」
髪型は同じだが与える印象は正反対と云っても良かった。
アルトの見目鮮やかな燃える印象とは異なり、紫苑のポニーテールは落ち着いてしっとりとした印象を第三者に与える。
ふと、紫苑は話題の渦中の人が宴の輪の中に居ない事を気付いた。
「そういえばアルトさんは何処に?」
「ああ、アレね。たぶんあっちの方に────」
モモが指を指してアルトが居るであろう方向を示す。
見ればその先に燃えるような紅の髪を見つける事が出来た。
遠目から見ても目立つ紅髪。
酒の席と云う事でアルトも軽鎧を脱ぎ去り、黒革製のパンツルックで身を� ��んでいた。
硬質な美貌と長身も相まって、その服の取り合わせはとても様になっている。
しかし。
遠目から見えるアルトの機嫌は、傍目から見てもよろしく無い物だと観測できた。
アルトはすらり、としたレザーパンツを穿いた脚を伸ばし、仁王立ちで腕組みをしている。
そしてそのアルトが見下ろす先には、正座のまま肩を小さくする獅子の刺繍をしたバンダナの青年──ヤドック。
「中々に小気味の良い啖呵であったが、些か雅に欠けておったな」
「あれでもう少し言葉を選んだ宣言であれば格好が付いたんですけどね」
「アルトの腰巾着君は何て云ったの?」
興味深々といった様子で紫苑の隣のベンチに腰掛けたモモが尋ねる。
痴話喧嘩は犬も喰わぬと云うが、質実剛健なア� �トがやっているとなれば珍しさの方が際立つ。
防衛線中央に居たモモからでは、ヤドックが吼えた男の叫びの内容までは届いていなかったのだ。
「あの小僧はアルトの乳を揉みしだくまでは死んでも死に切れんと吼えたのだ。ようもまあ戦場で恥ずかしげも無く其処まで云えるものじゃのう」
一瞬モモはきょとん、とした。
だが次の瞬間、盛大に吹き出して、お腹を抱えながら大笑いをし初めた。
「あーはっはっはっ! なによそれ! 男ってほんっとに馬鹿ちんが多いのね」
よほど笑いのツボに入ったのか、モモは笑い続けて息が続かなくなっても苦しそうに笑った。
紫苑はそんなモモのちっちゃな背中を擦りながら笑いの波が過ぎるの待つ。
「あー笑った笑った。なるほどね、つまりア� ��トのアレは照れ隠しも兼ねてって訳ね」
「俺もそう思います」
「いやー、結構長い間アルトと友人関係やってるけど漸くあの子にも春が来たんだねぇ。てっきりアタシはアルトより腕っ節が強い奴に惚れると思ってたんだけどね」
「ヤドックさんは素敵な方ですよ。今はちょっと情けないですけど、誠実で一途なお人です」
「あーなるほど。そういえばあの子、直球勝負の褒め言葉に弱いもんね、納得」
紫苑が説明するヤドックの為人(ひととなり)に得心するモモ。
今はガミガミ、とアルトの説教の雷を受けているヤドックであるが顔は悪くない。
盗賊から足を洗ってまで『炎獅子』の付き人として同行しているのだ。
その心根の思慕の念は相当な物だろう。
ヤドックの秋波を四六時中浴びせ� ��れたアルトが彼を男として意識するのも無理からぬ事だった。
◆
二人と一体はベンチに腰掛け、痴話喧嘩を肴に談笑していると宴の席が急に慌ただしくなってきた。
騒がしくも賑やかな祭りの喧騒とは異なる物々しい物騒な喧騒。
噴水広場に交錯する道の一つから街の兵士が列を成して現れたのだ。
兵士達が現れた路の先に在るのは領主の館。
彼等は半ば領主の私兵と化している憲兵だった。
領主の趣味なのか、金銀の装飾がふんだんに凝らされた悪趣味な鎧を纏う街兵達。
突然の闖入者に宴の陽気は露と消え、荒くれ者達の視線を一身に浴びる事となる。
兵士達の隊長と思われる口髭を蓄えた中年男性に兵士の一人が耳打ち。
憲兵の隊長──パウル=カルステニウスは広場の 一角、紫苑の姿を目に収めると口髭が乗った口角をにやり、と厭らしく歪めた。
そして、憲兵団を引き連れ、大人数で紫苑達の座るベンチを取り囲んだ。
「何用じゃ? そのような物々しき出で立ちで宴の席に参じるのは無粋であろう」
「これは失礼した人形のお嬢さん(フロイライン)。だが分かって欲しい、此方も任務で仕方無くなのだ」
バルの揶揄に、軽薄な笑みを浮かべ軽く流すパウル。
くすんだ金色の口髭をパウルは篭手を纏った人差し指と親指で扱き、ねっとり、とした視線で紫苑を舐め回す。
そして。
ほう、と感嘆ともつかぬ息を漏らす。
バウルは何時の間にか極上の美術品を品定めするような視線を紫苑に送っていた。
「では早速用件を云わせてもらおう。この街の領主で� �られるバノン=ティボー様が今回の『吸血姫』討伐の立役者『少年アリス』殿の活躍に大変感激されている。
バノン様は自ら賛辞の言葉と共に此度の小さな英雄殿に褒美を与えたいと申している。
よって今から我等と共に領主様の館にご同行願えないだろうか?」
「今から、ですか? 随分と急なのですね」
どのように性感染症は、転送される
紫苑が辺りを見渡すと、宴の参加者達が何事かと紫苑を取り巻く憲兵団を見ていた。
その視線はお世辞にも好意的なものではない。
明らかな侮蔑と嫌悪の入り混じった視線の針の筵。
当然である。
なぜなら彼等は街を護るという名目の下、一切『吸血姫』討伐に参加していないのだから。
街の住民の安全の為と云い張りながら、街の外壁内部に閉じ籠っていた彼等を誰が好意的な目で見ようか。
元より碌な働きをしないで威張り散らす憲兵団の評価は、地の底まで落ちていた。
更に年端も行かぬ紫苑を大人数で取り囲んでの出頭要請。
明らかに威圧の意味を込められた人数調整であった。
「おい、手前� �ら。こちとら今酒をかっ喰らいながら馬鹿騒ぎをやってんだ。つまんねぇ事で水を差すんじゃねぇよ」
「あぎぃぃっ!」
ぬぅ、と憲兵団の背後から立ち昇る巨体の影。
その巨体──ゴルディスが目に剣呑な光を湛えながら、兵士の一人の肩に大きな掌を乗せる。
すると、人外の握力で金属製の肩当てが粘土のようにひしゃげ、兵士が痛みに苦悶の表情のまま崩れ落ちる。
ゴルディスは冷たく単眼でその兵士を一瞥した後、大樽を片手で握ってその中身を豪快に飲む。
そして、口の端から垂れた酒を乱雑に手の甲で拭い、憲兵団の隊長──バウルを見据えた。
「何だね君は? 我々の邪魔をしないで貰いたいのだがね」
「ハッ、良く言うぜ。餓鬼一人相手にこんだけの頭数ぞろぞろと引き連れて何� ��しようってんだ。
腰抜け共は大人しく家に帰っておっかあの乳でも吸ってりゃあいんだ」
どっ、とゴルディスの物言いに宴の席に笑いの波が押し寄せた。
噴水広場の方々から野次の声が上がる。
「いいぞー、リーダーもっと云ってやれー!」
「美味い酒飲んでる時に辛気臭せぇ面見せに来てんじゃねぇぞ腰抜け共!」
「帰れ! 帰れ!」
野次と共に空になった酒瓶等が憲兵団に向かって投げ付けられる。
『外套と短剣』や討伐に参加した冒険者達からしたら悪者は憲兵団の方だ。
広場に集まった街の住人達からの目も冷ややか。
街の人々も誰が功労者で誰が臆病者なのか知っていた。
加えて、小柄な紫苑と更に小さなバルとモモを囲っている憲兵団達は、お世辞にも良い印象� ��受けないのも原因の一つであった。
「どうやら我等はあまり歓迎されていないようだ。『少年アリス』殿、今日の所は一旦引き揚げ、後日改めて伺います」
「おう、腰抜け共はさっさと尻尾をまくって帰りやがれってんだ」
バウルは飛び交う空瓶を篭手で弾きながら、憲兵団に帰還を促す。
踏ん反り返るゴルディスは、手をしっし、と振りながら彼等の退去を急かす。
苦虫を噛み潰したような表情が彼等に浮かぶ。
領主のお零れを授かる事で甘い汁を吸ってきた彼等にとって街人と冒険者から受ける仕打ちは耐え難い物であった。
一流の装備に身を包んだ尊大な虚栄心が憲兵団の心内を大いに苛んだ。
「どのような用件だったと思いますか?」
「さてな、じゃが予想は容易いのぅ。此度は� �和国の怨敵を討ったという大きな功績じゃ。
なのにその首級を挙げたのが外部の者──方々を渡り歩く冒険者であるならば国としての面子が保てん。
況してやあのガマガエル領主は己が身の可愛さに身の回りを私兵で固めて引き籠っておっただけじゃ」
何時の間にかバルは、小柄な人形の体で紫苑の膝を占領していた。
緩くウェーブを描く豪奢な髪を折れていない方の手で紫苑が梳る。
「何、それじゃあシオン君の手柄を横取ろうって腹積もりなの!?」
「其処までではあるまい。在るまいが、虚偽の報告を国に行う為に口裏合わせはやりそうではあるのう。
例えば『吸血姫』討伐は紫苑と憲兵団の精鋭が協力して行った、と云った所か」
「俺としては八方丸く収まるのであれば構わないのです� ��、けれども俺だけの問題ではありませんし、それでは討伐隊に参加した人達が納得しかねるのでは?」
「ちょっとシオン君はそれでいいの!? 頑張ったのに分の称賛が何にもしていない阿呆に流れて行っちゃうんだよ!?」
くるくる、と金糸の髪の毛先を弄びながら事なげも無く云うバル。
更に栄誉を欲しがらない無欲な紫苑に、モモは目を剥いて声を荒げる。
「紫苑にとって栄誉や他人の称賛など価値の位置付けが低いのじゃよ。のう紫苑、幾千幾万の人々の感謝と妾一人からの礼、どちらに価値が在る?」
「バルからの『ありがとう』の方が嬉しいです」
「そらみた事か。無論、妾とて其処までしよるならば看過出来ぬさ。さりとて全ては憶測、始まっておらねば動けぬ」
耳元で即答した紫苑の 答えにバルは機嫌を良くする。
云わされた紫苑は、分かりきった事を云わせないで下さい、と少し恥ずかしげだ。
モモは手慰みをしているバルの目を見た。
すぅ、と細くなった碧の硝子玉。
成程、一番の年長者が此処まで一人に過保護なのだ。
ならば心配無いだろう、とモモは自信を納得させた。
「まあでも困った事があったら何時でも云ってね。リーダーが迷惑かけたお詫びもあるし、『外套と短剣』は全面的にシオン君を味方するよ!」
「其処までして頂かなくとも」
「くく、その言葉を待っておった」
遠慮をする紫苑とは対照的に言質を取ったと悪い笑みを浮かべるバル。
モモは内心でちょっと先走ったかも、と後悔する。
「まあ、期待しておるぞ、副リーダー殿」
「� ��、任せない!」
どん、と小さな胸をやけっぱち気味に叩くモモ。
安請け合いからとんだ気苦労を背負い込んでしまったモモであった────
◆
宴の後日。
紫苑達はラタトスクで一番立派な屋敷──領主の館に招待されていた。
早朝、わざわざ『渡り鳥の止まり木』に使者を送りつけての手の込みよう。
よほど重要な話でもあるのだろう、と紫苑は先を案内する老執事の燕尾服を見ながらつらつら、と考えていた。
館の内装は、ガマガエル領主の嗜好をふんだんに反映し、華美で豪奢でそして悪趣味であった。
至る所に美術品が無秩序に並び、調律が取れていない。
住む者によって此処まで変わるのか、と紫苑は『吸血姫』の館を比較対象に思い浮かべていた。
紫苑の現 在の服装は、何時もの冒険者としての装いだ。
黒のハイネックのインナーで華奢な身体を覆い、黒シルクの長手袋。
純白を基調とした金刺繍が施された腰マントをたなびかせ、ニーソックスに包まれた細い脚を進める。
天使の輪を艶やかに反射させる黒髪は、昨夜のポニーテールと違い首の後ろで一つに結わえられている。
不調率な屋敷の中で、紫苑とバルの空間だけが浮き彫りになっている。
二人が醸し出す清楚で神秘的ともいえる雰囲気。
「此方で御座います」
白髪と真っ白な口髭を蓄えた老執事が、赤い絨毯の先の扉を恭しく開く。
部屋内は客人を迎える為の応接間になっていた。
通路と同様に税を凝らしたような豪華で華美な調度品に内装。
そして。
奥側のソ� �ァーでは一人の男が紫苑達の来訪を待っていた。
醜い。
一言でそのソファーに座る男を現すのならば、まさにそれに尽きた。
自らの贅をその肉体に蓄えているのでは無いかと思うほど、ぶくぶく、と太った身体。
頭髪は禿げかかり、顎が首の肉に隠れ見えなくなってしまっている。
忙しなく動く目はギョロギョロ、としていてバルが『ガマガエル』と評すのも無理からぬ風体であった。
そのガマガエルが上質な服に袖を通している姿は奇妙を飛び越えて、滑稽と云えた。
ボンレスハムのように服を押し広げたガマガエル領主が、紫苑の入室に喜色を現して迎え入れる。
「おお! 朝早くに良く来てくれた。噂はかねがね聞いているよ『少年アリス』君」
贅肉が立ち上がる。
ぎしり 、と酷くソファーが軋む音が部屋に響いた。
「立ち話もなんだ、さあ遠慮せず座ってくれたまえ」
紫苑に席を勧めながら、領主──ディモン=ソールズベリ・ラタトリアス伯爵はギョロついた目つきで紫苑の肢体を舐め回すように見た。
上から下へ、余す所無く視姦するような好色を帯びた視線。
紫苑と初対面で相対する男の反応は大抵二種類に分かれる。
その浮世離れした美貌に一歩引いてしまうか、逆に男としての性を隠し切れないかのどちらかである。
ディモンの場合後者であった。
紫苑を前にして、頭の中で穢れ無き紫苑を汚す下卑た妄想をしていた。
「領主様、其方の方は?」
ディモンに促され、臀部が深くまで沈み込む座り心地の良いソファーに腰を下ろす紫苑。
鈴 の転がる声で紫苑は室内に居たもう一人の人物の事を尋ねる。
蒼の視線の先。
部屋の壁際には陰が人の形を模ったような人物が音も無く佇んでいた。
実用性一辺倒に傾いた黒装束。
重心が全くぶれない如才無い自然な立ち姿。
長身痩躯ながら鍛え抜かれた肉体は、黒装束の上からも見て取れまるで一振りの刀のような鋭さを感じさせていた。
そして。
黒装束の男の特徴として最も目に付くのは、その頭部を覆う黒い覆面であろう。
僅かに露出した目元から覗く眼光は鋭く、後は完全に頭部を覆い尽くした黒覆面。
まさに物語に登場するような暗殺者(アサシン)然とした男が其処に居た。
「ああ、彼の事は気にしないでくれ。領主ともなると色々と厄介事が多くてね、彼には私の身辺� ��警護するよう雇った護衛だよ。
『影坊主』と云えば君達も聞き覚えがあるのではないかね?」
領主の放った『影坊主』と云う単語に紫苑は僅かに目を見開く。
『影坊主』シェイド。
畑違いの冒険者ですら聞き覚えのある傭兵の名だ。
傭兵ギルドの中で最高位である『特A』ランクを保有する数少ない傭兵の一人。
知名度で云えば『霜の鉄鎚』ゴルディスの方に軍配が上がるが、シェイドが単独で打ち立ててきた武勲や栄誉はゴルディスのそれと遜色は無い。
そう、『単独』でだ。
『影坊主』たる彼は特定のクランに所属してはいない。
ゴルディスの評価には少なからずクランでの功績も含まれているが、彼にはそれが無い。
つまり、『影坊主』シェイドは独力で『特A』まで登� ��詰めた実力者と云う事になるのだ。
ぺこり、と紫苑は『影坊主』に会釈をする。
だが、シェイドは微動だにせず反応を返さない。
その反応に紫苑本人で無く、バルが不機嫌を露わにする。
「ふん! なんじゃい陰気な奴だの。紫苑が折角挨拶をしておるのに無視するとは不届き者め」
「こら、バル駄目ですよ」
「はは、気を悪くさせてしまったようですまないね。彼は仕事の事以外では滅多に喋らないのでね、あまり気にしないでくれ」
そうは云うもののディモンの額には盛大な汗。
上物のハンカチでその汗を拭う。
『特A』クラス、しかも冒険者よりもならず者の多い傭兵相手にこうまで悪態を吐けるバルに、ディモンは少なからず戦慄した。
「今回の『吸血姫』討伐、君は実に� ��晴らしい活躍振りをしてくれたそうだね、話は聞いてるよ。この街の領主として改めて礼を云おう」
「いえ、私は討伐隊の皆が切り開いてくれた血路を走っただけに過ぎません。その言葉は今回討伐隊に参加した人達云ってあげて下さい」
硝子のテーブルを挟んでの対話。
街一番の権力者の会談と云う事で、紫苑の一人称は『私』だ。
唯一男らしかった一人称さえ変えてしまえば、紫苑が男だと判別する事は不可能になる。
「おや、そうかね? はは、『少年アリス』君はとても謙虚な性格の持ち主だね。だが、最大の功労者は紛れも無く君だ。
何か望む者は無いね? 私も領主として出来うる限り期待に添えようじゃ────」
「まわりくどい」
ぴしゃり、とバルが領主の口上を斬って捨てた。
脚を組み、頬杖を突いた尊大な態度。
どう考えても目上の前にする仕草では無い。
だが、バルトアンデルスが行えば、それは自然。
「君は?」
「バルトアンデルスじゃ。この名、しかと胸に刻みつけておけ」
話を遮られ不愉快気にディモンはギョロついた目をバルに向ける。
だが、バルはそんな視線など何処吹く風。
「それで、まわりくどいとはどういった意味だね?」
「そのままの意味じゃ。賄賂を褒章と耳触りの良い言葉で置き換えるのではないわ。どうせ対価を要求する腹積もりなのであろう?
ならば疾くとせよ。妾達に貴様の戯言を無駄に聞く時間など無いわ」
「……なるほ ど」
ディモンの目つきが変容する。
贅肉に覆われた不格好な肉体の中で、その眼だけやけにぎらつく。
伊達に海千山千の貴族の社交界を渡り歩いていないという事をその眼に含んだ光が雄弁に語っていた。
「では単刀直入云おうか」
顔の前で手を組み、前のめりになってディモンが切り出す。
「金か? 女か? それとも秘蹟礼装かね?」
「……」
「君の事は少々調べさせてもらったよ、『少年アリス』君。
拠点としている場所は『ウルドの村』。
ギルドに冒険者として登録をして僅か一年間でランク『C』に登り詰めた期待の逸材。
今回の功績を讃え、ギルドとしては『B』の称号を与えるつもりらしいがね。
用いる武装は主に鉄で作られた糸。
たかが糸でどうや って相手を倒すのか、これには私も大いに興味があるがね。
そして、君はギルドに対して奇妙な依頼をしている。破格の報酬と共に種類問わず秘蹟礼装の情報を求める依頼」
朗々と紫苑の個人情報を並べ立てていくディモン。
お前の欲しい物は分かっている、と云わんばかりの嫌らしい表情で紫苑を覗き見る。
「君さえ良ければ私のコレクションの中の秘蹟礼装を譲渡しても良いと思っている。
ただ君はほんの少し王都から視察目的で来る騎士団に口添えをしてくれるだけで良い。
『吸血姫』討伐は憲兵団から派遣された精鋭と共に為した、とね」
「お断りします」
今度はバルでは無く、姿勢良くソファーに座っていた紫苑がぴしゃり、と云ってのけた。
紫苑は真っ直ぐディモンの瞳を� ��て、ディモンは紫苑の深い蒼玉の瞳に目を奪われた。
「先程申しましたとおり此度の功績は私だけのものではありません。そして真実を偽り、虚偽を口にする事は、戦いで血を流した人達全てに対する裏切り。
私にはそんな不誠実な事をするなど出来ません。私は領主様から何も求められませんでした。ただ労いのお言葉を聞いただけです。どうかそれでご容赦ください」
紫苑は領主からの要求をなかった事にし、頭を下げた。
ぎしり、ディモンはソファーの背凭れに体重を預ける。
梃子でも動かない様子の紫苑に、彼は何を云っても無駄だと悟ったのだろう。
一瞬、苦虫を噛み潰したような表情が過る。
しかし、それも束の間。
眉間を脂肪に塗れた太い指で揉み解し、不愉快気な顔を覆い 隠した。
「……そうかね、分かった。爺、客人がお帰りだ。見送って差し上げなさい」
ちりん、とディモンがテーブルの上にあった呼び鈴を鳴らす。
応接間の扉が開かれ、屋敷の老執事が紫苑達を待っていた。
一礼をして、席を立つ二人の後姿。
その背中にディモンはもう一つ用意をしてあった札を切る。
「ああ、『少年アリス』君。君が居を構えている『ウルドの村』には、ダークエルフと魔物のハーフが住みついているらしいね。
何が起こるか分からない世の中だ、若い身空の二人が危険に晒されなければ良いと私は心底思うよ」
それは脅し文句であった。
そして同時に禁じ手。
絶対に切ってはならない札でもあった。
背中越しに紫苑の気配がぞろり、と剥がれ落ち� �異質な顔を覗かせる。
腐り落ちた果実が放つような濃密で豊潤で噎せ返る死の香り。
いち早く紫苑の異変を察知した『影坊主』が領主の身を護ろうと動く。
だが。
「────動くな」
その一言で全ての者が静止した。
肉眼での目視が不可能な微細の金属糸による肉体への強制干渉。
既に紫苑達二人を除くこの場に居る者全員の肉体は本人の命令系統を外れ『少年アリス』の意の儘になっていた。
金属糸は憐れな獲物の脊髄深くまで差し込まれ、紫苑が意識しさえすれば『魔動』により過負荷の電流が神経幹の中枢神経を再起不能なまでずたずたに破壊し尽くす。
行き着く果ては、首から下が麻痺し、二度と動かぬ不随の一生。
その境界線の一歩手前。
此岸と彼岸。
引� �返すも、乗り越えるも紫苑の心の匙加減一つ。
「な、なんだこれは身体が動かぬ!?」
「……」
豚に良く似たガマガエルが人の言葉で喚き散らす。
耳障りな音が酷く紫苑を不快にさせた。
『影坊主』は紫苑の背中を油断無く睨み付け、窮地の逆転を図る。
見えない蜘蛛の巣に捕えられた二匹の心情など紫苑はお構いなく、ゆったり、とした動作で振り返る。
外面だけを見れば絶世の見返り美人と称されるだろう。
だが、瞳の輝きが獲物達の肝を凍り付かせた。
汚泥のように濁る蒼い瞳が無感動に二匹を見ていた。
くすり、と紫苑が口角を持ち上げるだけの笑みを作った。
「領主様は冗談がお上手なのですね」
そして紫苑は本当に、不思議そうに尋ねた。
──── 死体がどうやってそれをやるというのですか?
◆
紫苑達は誰の見送りも無く、自分の足で領主の館を去って行った。
紫苑の華奢な背中が見えなくなってから数分。
漸くディモンは身体の自由が戻っている事に気が付いた。
そして。
どっ、と汗が吹き出しその場にへたり込んだ。
彼は未だ自分の首と身体が繋がっている事が信じられなかった。
「ぜえ、はあっ…………はあ、はあ、な、何なのだあの化け物は……」
脂汗と冷や汗が止まらない。
美しいと思っていた蒼い瞳が泡立つ汚泥のような仄暗さを宿した途端。
眼が合ったディモンは死を想起した。
あれは人の形をしたナニカであった。
「……化生の類、だな」
「き、貴様、何をしておった! 高い金を払� �て貴様を雇っているのは何のためだ! 糞の役にも立たないではないかっ!」
今まで一言も喋らなかった『影坊主』シェイドが初めて言葉を口にした。
矛先を見つけた領主は苛立ちの捌け口として怒鳴り散らす。
だが、『影坊主』にその怒鳴り声は柳に風。
雇い主とはいえ敬意を払う間柄ではない。
「ふ、ふん! まあ、良い。所詮奴も情の通った人間。脅す内容は幾らでもある」
「……止めておけ。無闇に藪を突いて魔獣を出す事も無いだろう。アレは刺し違えても貴様の命を奪いに来るぞ」
『影坊主』シェイドが冷静になれ、とディモンを諭す。
だが、頭に血が上ったディモンは、その意見を聞き入れない。
苛立たしげに怒鳴る。
「黙れっ! ぐふふ、手始めに奴の大事に� �ているハーフとダークエルフを────」
激昂した後に醜悪に咽喉を鳴らし笑うディモン。
直後。
ぱち、と静電気の火花が弾ける音。
ぷつん、とナニカが切れる感覚をディモンは感じた。
不自然に途切れる領主の言葉にシェイドはいぶかしげに思い、彼を見た。
ぐらり、と贅肉の塊であるディモンの肉体が傾く。
「がはっ」
受け身すら取れていない無様な倒れ方。
だが不思議とディモンは痛みを感じなかった。
それも当然。
首の骨──脊柱の全ての部位。
頸椎、胸椎、腰椎、仙椎、尾椎、それら全てが過電流を流され、再起不能なまで破壊され尽くしているのだから。
全身麻痺を初め、呼吸筋すら麻痺し、自発的な呼吸すら儘ならない。
かろうじて首か� �上が動くが、その口から意味のある言葉を発する事は不可能。
酸素を求める魚のように口を開閉させるのみであった。
だが、そんな無様を晒しても肺が求める酸素は一向に入ってこない。
やがて、ラタトスクの領主であるディモン=ソールズベリ・ラタトリアス伯爵の意識は闇に墜ちていった。
永久に覚める事の無い闇へと────
◆
交錯の都市『ラタトスク』での宴は二日間にも及んだ。
実際の所は『外套と短剣』のメンバーを主導としてまだまだ続きそうではあったが、
紫苑はそれに参加する事無く脱兎の如く『ウルドの湖』にとんぼ返りをしていた。
今迄貯め込んでいた秘蹟礼装『バルトアンデルス』のマナを使用しての『空間転移』。
その甲斐あってか、数分と経たず にラティルスとミオソティス両名の無事な顔が確認できた。
現在。
紫苑とバルは小春日和の中、シロのふさふさした背中に跨り、ゆったりと雑木林の散歩道を進んでいた。
シロの散歩を兼ねた『ウルドの湖』周辺地域の巡回であった。
主人達を乗せたシロは、折れた腕の具合を見て上に乗る紫苑に負担の掛からぬように慎重に歩く。
風が林の木々を揺らし、春の香りを運び鼻先を掠める。
時折見かけるフェアリーは羽ばたく蝶と戯れて遊んでいた。
時間がゆっくりと流れる中。
一人と一体と一匹は道なりを進み、道が二股に分かれている場所まで辿り着いていた。
片方が『ウルドの湖』に通ずる道。
もう片方が小さな村落『ウルドの村』に通ずる道。
不図。
紫苑は雑� �林の中から観察するような目を感じ、視線の先に向く。
シロは生き物の気配を感じ、低く唸り始めた。
領主の差し金か、はたまた夜盗の類か。
「どなたですか?」
その一言で気配がざわつく。
存在を看破された事で発せられた動揺。
それは姿を見せぬナニカが居る裏付けでもあった。
蝙蝠が一匹、雑木林から羽ばたいた。
否。
一匹ではなかった。
蝙蝠は瞬く間にその数を増やしていき、夥しい数の影がウルドの湖付近の林を黒く覆う。
そして、蝙蝠達は渦を巻くように一点に収束していき一つの形を成す。
目の前で目まぐるしく起こる変化に紫苑とバルは見覚えがあった。
それは吸血鬼の登場。
「覗き見の非礼、大変失礼しましたミカガミ・シオン様」
突如として現れた一介の吸血鬼。
身に着けるはヴィクトリアン調の格式高いメイド服。
後頭部で複雑に編み込まれた雅な紫色の結い髪。
それは『吸血姫』唯一の従者──ラヴァテラであった。
ラヴァテラは謝罪を口にし、深々と頭を下げた。
油断無く紫苑はラヴァテラを見やる。
「……仇討ち、ですか?」
剣呑になる雰囲気の中、ラヴァテラは紫苑の質問に頭(かぶり)を振る。
そしてラヴァテラは、紫苑達の前に現れた真意を口にする。
「我が主は死を望まれていました。死に魅入られた主を現世へと引き留めていたのは単(ひとえ)に私の我儘で御座います。
ですが、幾ら私が此方側へ引き戻そうとも我が主マルヴァ様は終演を望んでおられた。焼かれると分かっていなが� ��も火に飛び込む誘蛾の如く、飛び込まざるを得ない。
私は主の切なる願いを叶えて下さった貴方様達を害する気など毛頭御座いません」
「ならば何用ぞ?」
バルが改めて問う。
親である『吸血姫』を討ち取った紫苑達の前に姿を現した理由を。
ラヴァテラは鼻先に掛けられた銀縁眼鏡を指先でくい、と押し上げた。
そして紫紺の瞳で真っ直ぐ紫苑達の瞳と交錯する。
「結論から申します。今は亡きマルヴァ様の恩人であるお二人方への御恩返しにございます」
「御恩返し……」
予想だにしない答えに紫苑は戸惑う。
理解できない。
紫苑がラヴァテラと同じ立場であれば不可能だ。
必ず大切な人を奪った者に復讐を決意するであろう。
故にラヴァテラの発した答えは、紫苑にとって不可解であり理解の難しい物であった。
ラヴァテラは最初に不死者溢れる戦場でしたように、スカートの端を摘み完璧な一礼をして見せた。
────ミカガミ・シオン様、メイドを一人仕えさせてみては如何ですか?
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